リクエストに応えて
昨年の暮れに【実録小説】逆転の聖夜(リヴィエラ倶楽部のクリスマスメッセージ2024)を発表して以来、当ブログの更新が途絶えておりました。
リヴィエラ門下生(最強攻略法・海殺しXの購入者)の皆様からの熱烈なラブコールに負けて、このたびは重い腰を上げて超大作を執筆致しました。
その後、同様のドキュメンタリータッチの読み物を希望される方々が後を絶ちません。リクエストに応えるべく、このたびも心の洗われる話を紹介させていただきます。調査を行った上で執筆した実話ベースの読み物ですので、通常のフィクション作品にはない感動を味わえるはずです。
ストーリー全体に通底するものは登場人物の「純情」です。
プロローグ
舞台は1980年代、三陸海岸(岩手県)のとある村。盛岡駅から車で2時間半もかかる「陸の孤島」は農林水産業以外の産業はなく、これといった娯楽もない寂れた場所で村人たちの大半は極貧の暮らしに喘いでいた。
この村に生まれて
海の絶景
早見は自ら産業振興プロジェクトの先頭に立ち、遊覧船の創設やリゾートホテルの建設を実現に漕ぎ着けた。
観光客の急増
このプロジェクトの成功によって偉勲を立てた早見は全国町村会の常務理事に推挙された。しかし、彼は社会的名声には一切関心のない男であった。
いまだ成らず
早見は観光事業の成功は起死回生の第一弾にすぎず、夢の実現まではまだまだ遠い道のりが続くことを覚悟した。
歴然たる格差
汗びっしょりになって一日の仕事を終えた料理人は客が残した魚をサランラップに包んで家に持ち帰る。
注文を承るウェイターは汗だくだくになって慣れない標準語を話してはいるが、強烈な東北訛りが抜けず、客からは蔑みの視線を投げかけられる。
無医村の悩み
村の健全な発展にはインフラの整備が不可欠である。村人たちに憲法が保障する健康で文化的な生活を享受させるための最重要インフラは医療施設であった。
無医村地帯の一つであったこの村は、救急車を呼んでも最寄りの病院に着くまでに1時間はかかる。応急処置さえ施せば大事に至らない病でも、搬送中に容態が悪化して命を落とす高齢者が後を絶たなかった。
名ばかりの診療所
早見は公営診療所をただちに設置した。これは旅行中に体調を崩した観光客のためにも必要であった。無医村の観光地で旅行中に死んだ人の噂でも立てば観光ブームに水を差す。
苦悶の日々
「問い合わせをしてくるお医者様は全くいないのか?」
毎日のように部下に尋ねることが早見の朝一番の日課となったが、部下からはその都度、諦念に満ちた反応が返ってくるだけであった。無理もない、と彼は思った。
村役場では、医療部門の閉鎖もやむを得ないという意見が出始めていたが、早見は藁をもすがる思いで劣悪な労働環境を甘受する世捨て人的な医師の出現を待った。
理想の医師像
能力は高くなくてもよい。二流、三流の医師でもよい。村人に慕われ、彼らに安らぎを与えてくれる医師が欲しかった。いつでもお目にかかれるお医者様が存在するという安心感があるだけで、老人たちは憂うことなく余生を全うすることができる。
医師の給料としては惨めな額であるとしても、この村では最高峰の月収である。独身の若い医師であれば、結婚するまでの間はわりと贅沢な暮らしを営める。
好転の兆し
早見の希求的願望は思いのほか早く実現した。ある日の朝、観光課の係長、工藤という男が村長室のドアを叩いた。
と軽く挨拶をした後、彼は興奮を抑え切れぬ声で
「村長、診療所の求人に一件の問い合わせがありました!」
と叫び、応募者の履歴書を早見に手渡した。
「凄い経歴ですよ。こんな先生がこの村に来て下さるなんて!」
工藤は早見の悩みを身近で見てきただけに彼の顔を少しでもほころばせたかった。そんな工藤の気遣いには感謝しながらも、早見は彼に冷ややかな視線を投げた。そして
「君はまだ若いな」
と呟いた。
輝かしいキャリア
履歴書によれば、応募してきた医師、梅澤 誠(仮名)は45歳、某国立癌センターの要職に就いている。一般人には理解し難い題名のついた過去の執筆論文が山ほどある。家族は「妻と息子三人」とある。
貧しい村にとっては本来の理想が忌まわしきものであることを、早見は村に根付かなかった過去の勤務医の実例から痛いほど思い知らされてきた。
「こんなに偉いお医者様が一家でこの村に引っ越して下さると君は思うのかね? この給料で子供三人だぞ。サラリーマン並みの生活しかできないじゃないか」
「たしかに妙ではありますが、履歴書まで送ってきたのですから本気ではないでしょうか」
工藤とこんな会話を交わした後、早見は梅澤という医師が相当な変わり者であれば、あり得ない話でもないと思った。
疑惑
この記事を読み、涙ぐんだ梅澤が衝動的に村の観光課に電話をかけ、言われるままに履歴書を送り、今頃になって自分の軽率すぎた行動を悔やんでいることを早見は危惧した。
新たな不安
この裏読みが当たっていれば、梅澤は求人広告すら見ておらず、給与額も知らぬものと思われる。
早見はエリート医師が手にする給与額の相場を知らなかったが、本当に梅澤が国立癌センターを辞めて村の診療所に転職すれば、ひと月に10万円、20万円レベルの減収ではすまされず、現給与の二分の一、下手すれば三分の一になってしまうことを案じて頭を抱えた。
吉か凶か
しかし、可能性は低いとはいえ、梅澤と面会して自分の熱意を示せば、新聞記事に感動するような涙もろい男であるので、待遇などは度外視して一世一代の決断をしてくれるかもしれぬ、と早見は淡い期待に胸を膨らませた。
経歴に偽りがなければ、医師としての最高ポジションを自ら放棄するという話には何か裏がある。人格的に致命的な欠陥を抱えていて、周囲との折り合いがつかず、一国一城の主として気楽に働けそうな村の診療所を梅澤が選んだのであれば、そんな人物は御免被りたいと早見は思った。
診療所の意義
技能に如何に優れていようとも、診療所で高度な手術をするわけではない。ここで働く医師が重責を負って患者の生死を左右するような決断を下さなけければならないというわけでもない。厄介なケースは県立病院に回すのがこの診療所の慣わしであった。
先見の明に長けた早見は予防医学の概念がまだ一般に浸透していなかったこの時代に「病を治すこと」より「病にかからぬこと」が健康維持の秘訣であることを知っていた。大病の早期発見に重点を置いていたのである。
エリート医師初見参
数日後、村の下見を兼ねて梅澤が来村した。早見の杞憂はたちどころに消えた。
早見が村の数多の窮状に言及するたびに梅澤の目には涙が浮かんだ。それを隠そうとして、別の方角に顔を逸らす梅澤の仕種に早見は好感を抱いた。
謙遜の鏡
早見は梅澤を「本物の大人物」として一目置いた。
恐る恐る給与面の話を持ち出した早見であったが、梅澤は全く気にする様子もなく、拍子抜けした気分になった。後は奥様次第だ、と早見は思った。
色白美人
梅澤に同行していた春美夫人(仮名)は千葉県木更津市出身の色白美人であった。年齢は30 代後半であったが、トレンディードラマで見かける女優のような華があり、実年齢よりも遥かに若く見えた。
突然、春美夫人がこの辺鄙な村への移住に強硬に反対する最悪のシナリオが目の前にちらつき始めた。後日、梅澤から「今回の話はなかったことにして下さい。実は女房の同意が得られなくて・・・」と言われそうな気がして、急に心拍数が上がった早見は不意に襲われたこの不安から一刻も早く逃れたかった。
懸命な祈り
早見は工藤を呼び、
「今すぐに車を出して、先生ご夫妻を風光明媚な場所にお連れしろ」
と命じた。日頃から早見を慕っている工藤はこのような流れになることを予期していて、事前に観光名所の案内計画を綿密に練っていた。
不安ふたたび
梅澤夫妻との会話中、早見も同様の祈りを天に捧げていた。村の観光名所について熱っぽく語るたびに梅澤は好反応を示すも春美夫人の表情は暗く、口数も少なかった。恐れていることが現実になりそうだと感じた早見の体は次第に硬直した。
すでに諦めていた早見は自ら電話をかけて梅澤の最終意志を確認する気にはなれなかった。春美夫人への説得に難儀しているのに違いない。苦しんでいる梅澤に「結局、どうされますか?」と追い打ちをかけるようなことはしたくなかった。
運命の出逢い
早見は梅澤という心の澄んだ大人物と出逢えただけでも幸せであった。
倦怠
役場の者も早見に梅澤の件に関して一切尋ねなくなった。土台、無理のある話だったのだ。背が高く映画俳優のような風貌の梅澤とトレンディー女優のような華やかさに包まれた春美夫人がこんなみずぼらしい村に来るわけがないのだ。
役場全体に諦めムードが広がっていたある日、梅澤から村長宛の電話があった。
奇跡
緊張で体がこわばった早見に梅澤が放った言葉は意表を突いた。
「こんなに待たせてしまったことをお許し下さい。ついに家内が私の説得に折れました」
早見の心を見透かしているような言い方であった。不覚にも、早見は泣いた。
奇跡が起きたと思った。二流、三流の医師でも構わぬから人情味溢れる人をと願っていたのに、人格、技量ともに超一流の医師が診療所に赴任する!
周囲からは歓声が上がり、何事かと部屋から出てきた助役以下の重役も瞼を濡らした早見の顔と「よかったですね、村長さん」と声をかける女子事務員の様子から診療所の新所長が見つかったことを知った。
大車輪の活躍
一家で村に移住した梅澤の働きぶりは想像を絶するものであった。これ以上にないほど丁寧に一人ひとりの患者と向き合い、小さな診療所で働く医師の範疇を超越した目覚ましい活躍を見せた。
早見は診療所の電話の近くで梅澤と県立病院の医師との会話を聞く機会が幾度かあったが、梅澤が何かを教示していることが多く、どちらが大病院の医師なのかと見紛うほどであった。
精密検査用の医療機器を備えていない診療所ではあったが、梅澤の眼力の鋭さは天才的であった。
県内の医師たちは自分たちとは別世界の領域に生きる梅澤を神がかった万能医師として崇めるようになった。
梅澤の噂はたちまち四方八方に拡散して、梅澤は多数の医師から相談を持ちかけられるようになった。梅澤は無償で気軽に応じた。
診療所の勤務医にここまでの働きを求めていなかった早見は安月給でも仕事に手を抜かない梅澤に畏敬の念を抱いた。
患者からの崇敬
看護師の献身
彼女たちの中には東京や仙台の大病院で勤務した経験を持つ者もいたが、長続きはしなかった。名医とちやほやされる都会の医師には傍若無人のならず者が多く、パワハラ、セクハラの被害に遭って泣きながら村に戻ってきたのである。
梅澤哲学
梅澤には揺るぎない信念があった。それは優秀な看護師が優秀な医師を育てるという思想であった。
新米医師は注射の打ち方すら心得えない。手慣れた手つきで注射する看護師のやり方を観察しながらコツを掴む。
医学部で学んだことはなくても、長年の現場経験を通じて、パターン化された案件は頭に叩き込まれているのである。
看護師を自分たちよりも遥かに格下の階級と見做す医師たちに梅澤は嫌悪感に近い感情を抱いていた。
医師と看護師とでは収入に雲泥の差があるが、それは責任の重さの違いから来るものである。収入が人としてのランク付けにつながると信じていたかつての同僚医師を梅澤はある種の知恵遅れであると見做していた。
骨休め
診療所は連日にわたり、大勢の村人たちに埋め尽くされたが、台風や大雨の日はさすがに来る人が少なく、梅澤と看護師たちには骨休めの機会となった。
お盆に人数分の湯呑み茶碗を乗せて看護師たちの部屋に運んだところ、美津子という熟年の看護師が急に立ち上がり、「先生、ごめんなさい!」
と金切り声で叫んだ。
いつも自分を支えてくれる仲間にお茶を汲むのは当然と考えていた梅澤は美津子の悲痛な叫び声の意味を理解しかねた。
何秒かの沈黙の後、漸く梅澤は通常の社会的序列を思い出し、本来は看護師が目上の医師にお茶を差し出すべき立場なのに気が利かぬために上司の手を煩わせてしまったことを美津子が深く詫びていることに気付いた。
婦長役
嵐の説教
美津子は若い看護師に範を示せなかった自責の念に駆られていた。
各自にお茶を配り終えた梅澤は美津子に座るように促し、優しくも威厳に満ちた声で諭し始めた。
「・・・・・・」
「私が医術のプロとすれば、皆さんは看護のプロです。大きな病院にはレントゲン技師を始めとする検査のプロもいます。本来、病院とはプロ集団なのです。患者の生死に直接かかわる医師職に就く者は最も重大な使命を担いますが、他分野のプロの協力なくしてこの使命は全うできません。医師と看護師は互いに仕え合う関係でなければなりません。今日からこのことを我々の共通認識にしましょう」
「・・・・・・」
「頭は良くても手先の不器用な私が不慣れな包帯巻きなどをして、四苦八苦している時はいくらでも叱りつけて下さい!」
静寂な部屋に激しい雨音だけがしばらくの間聞こえていた。
梅澤の説教を看護師たちは真剣に聴き入っていたが、最後はおどけて「頭は良くても」と敢えて無用な挿入句を差し込んだ梅澤の諧謔(かいぎゃく)を一同は笑うに笑えず、珍妙な空気が流れた。
「承知致しました。看護関係の事柄に関しましては、ロートルの私が先頭に立って先生に指南致します」
と遠慮がちに言った。緊張がほどけ、漸く皆が微笑むと、梅澤は
「何卒お手柔らかにお願い致します」
と言って頭を下げた。
村の太陽
早見は診療所に通う村人たちの笑顔を見るたびに自分の苦労が報われる思いであった。気がかりなことは春美夫人と息子たちが果たしてこの村に馴染めるかどうかという一点に尽きた。
快活な息子
人口五千人の寒村である。仕事柄、顔の広い早見は村の要職者のほぼ全員を知っていた。早見は梅澤の上の二人の息子が通う小学校の校長に訊いてみた。
校長は梅澤の長男も次男もクラスの人気者でガキ大将として仲間を連れて山や海を走り回り、充実した日々を送っていると語った。
裏山歩き
秋色の深まった日曜日、早見は裏山の散策中に春美夫人の姿を見かけた。彼女は自分よりもひと回りほど若い村の娘二人と山菜採りに精を出していた。
早見の姿に気付いた春美夫人は
「私どもにこの素晴らしい村とのご縁をつくって下さいましたことに心よりお礼申し上げます」
と奥ゆかしい言葉で丁重に礼を述べ、深々と頭を下げた。
実際に春美夫人は幸せに見えた。彼女は嬉々として山菜や野生の花々を摘んでいたし、ひと回りも若い娘たち二人とも十分に溶け込んでいた。幼い頃から同い年の親友として常に行動を共にしているこの二人を早見は「二人娘」と呼んで可愛がっていた。
「これは何科の植物で・・・」と春美夫人が言うたびに、二人娘は教師に引率されて課外授業に参加している生徒のように従順に耳を傾けていた。
お茶目な二人
早見は二人娘にも声をかけた。
「おい、お前たち、春美さんは華やかな都会暮らしを捨てて、この村に移住されたんだぞ。地元で生育する植物についてお前たちが春美さんに教えてやらねばならぬのに、逆に教わっているとは何事だ!」
「私たちの成人式の時に『大人になってからも恥ずかしがらずに何事も人から教わりなさい』とスピーチされたのはどなたでしたっけ?」
これには早見も参った。何年か前の成人式の式典で壇上から新成人にそのように督励したのは自分であった。
と早見が素直に詫びると、もう一人の娘が慰めた。
涙腺の弱い早見は言葉を詰まらせながら「ありがとう」とだけ言い、心の中で「純情なのはお前たちの方だ」と呟いた。何年も前の成人式の来賓スピーチを記憶している殊勝な奴がどこにいるか、と彼は思った。
村の至宝
二人娘と春美夫人と別れた後、早見は岩陰で嬉し泣きした。
この村に生まれてよかったと村人たちに思わせることが村長としての終生の目標であったが、ひと足先に自分自身がこの村に生まれてよかったと実感するとは思ってもみなかった。
早見はこのような何気ない日常のひとコマにこの村の魅力が潜んでいることに気付いた。優しさと思いやりを常に忘れぬ村人こそが何ものにも代えがたい至宝であることにも。
人心には勝てぬ
工藤と共に梅澤夫妻に村内の名所を案内した時、春美夫人は終始、陰鬱な表情を崩さなかった。美しい景色も美しい建物も、美しい人心には敵わない。
文化的に価値のある建造物を見せても少しも心を動かされなかった春美夫人であったが、気の置けない友ができて、水を得た魚のように、溌剌(はつらつ)としてきた。
優れた倫理観
春美夫人の経歴までは知らぬが高学歴の梅澤の伴侶ならばそれなりの知識や教養を備えているに違いない。
一方、春美夫人と遊んでいた二人娘はいずれも高卒である。しかも競争率が異常に低く、受験さえすれば誰もが合格可能な低偏差値校の出身である。明らかに春美夫人とは釣り合わないが、早見はこの二人を村の誇りであると自負していた。
狂気
すでに当選4期の長期政権に入っている早見は初当選直後から村の隅々まで走り回り、村長職に必要な人脈を築いてきた。その過程において、行く先々で出会う面会者の子女たちとも親しくなった。
理沙が小学生の頃から早見は彼女を知っていた。私利私欲がなく、村人たちのために常に全力を尽くす村長を尊敬していた理沙は、選挙権が与えられる成人になってから早見に投票することを本人の前で約束した。
マスコットガール
何年も前の早見のスピーチを正確に覚えていたのは葵(あおい)という名の娘であった。
つい最近、葵の目の前で50歳前後の観光客のおじさんが昏倒する事故が発生した。この地域で救急車を呼んでも来るまでにかなり待たされることを地元住民は誰でも知っている。
非力な女性が渾身の力を振り絞り、おじさんの体を抱えてふらついている非常事態に気付いた個人タクシーの運転手がすぐに助けにきた。彼は自分の車の助手席におじさんを座らせ、椅子の背もたれを最大限に倒してから診療所に急行した。事情説明のために葵も同行した。
この村らしさ
緊急事態とはいえ、許可も取らずに勤務を抜けた彼女は店長から大目玉を食らうことを覚悟していた。しかし、彼女を見つめる店長の目は慈愛に溢れていた。
「車の料金、いくらだった? おいらが払うよ」
結構な金額であったが、運転手は葵の差し出した泣けなしの金を受け取ろうとはしなかった。そのことを店長に告げると、彼はしばらく感慨に浸っていた。
「この村らしいな」
と呟いた後、
「まあ、これでも飲め!」
と明るい声で言い、勤務後に葵が時折、社員割引で買うストレート果汁の林檎ジュースの蓋を開けた。
日頃は厳しい店長がいつになく優しかったので、葵は彼を見直した。後日、この日の出来事を店長から聞いた早見は葵のことを頼もしく思うと同時に、店長やタクシー運転手も村の至宝として高く評価した。
葵は診療所で梅澤に会ったことがきっかけで春美夫人と親しくなり、幼馴染の理沙を春美夫人に紹介した。最大の懸案であった春美夫人に二人の友人ができたことを早見は我が事のように喜んだ。
春美フィーバー
梅澤の評判は村中に広がり、彼のみならず春美夫人も多忙を極めるようになった。梅澤のお陰で病から回復した村人がお礼の品を携えて、一人また一人と梅澤宅を訪れる。
時折、同世代の男性と家の中で二人きりになることもあった。女性にとっては、にわかに危険な状況であるが、小さな村で破廉恥なことが明るみに出れば当時者は誰とも顔を合わせられなくなるので、事件は決して起こらない。
教養高く、素朴な村人にはない品位を全身から漂わせる「麗人」は亭主同様、他人への思いやりに溢れた人格者であった。そんな彼女に大勢の村人が群がる様子は「春美フィーバー」と称されるようになった。
喫茶Harumi
フィーバーが止まらなくなった。知らぬまに梅澤夫妻宅は村人たちの交流の場となり、茶飲み仲間が頻繁に訪れるようになった。気がつけば、春美夫人は喫茶店のママのような存在になっていた。
文芸サロン
本が好きな春美夫人は話題の新刊書を大量に取り寄せ、読んでみて面白かったものを「常連さん」に譲っていた。
熱狂的な観光ブームで沸き立つ村の片隅で静かな読書ブームが起こった。喫茶Harumiは来訪者がお茶を飲みながら読んだ本を論評し合う文芸サロンのような空間と化した。
謎めいた沈黙
そんなある日、梅澤夫妻宅では、三人の読書仲間が死生観をめぐって意見交換を行っていた。
春美夫人の薫陶を受けて、すっかりディスカッション慣れした来訪者たちは、迂闊にも「教授」を蚊帳の外にして、白熱した議論を楽しんでいた。
「やあ、皆さん」
と声をかけた途端、梅澤は笑い声が絶えないいつもの団欒とは違う湿った空気が部屋全体を領していることに気付いた。
未読の本
ふとテーブルの上に視線を落とすと、著名な作家の著した終活の本が目に入った。死の準備をテーマにしたこの本は春美夫人が作家の知名度と装丁の美しさに惹かれて衝動買いしたものであったが、最後まで読めずに途中で投げ出してしまった経緯があった。
これはまずい、と梅澤は思った。場の雰囲気を変えたくなった梅澤は
「どうです、皆さん。これから外で夕食を共にしませんか。今日は私の驕りということで」
と打診した。梅澤夫妻のファンたちは狂喜した。
村長も誘って
この夕食会には別の目的も含まれていた。早見にも来てほしかった。間髪入れず、梅澤は村役場に電話をかけた。
「もしもし、梅澤ですが、今、我が家に三人の来客がいらっしゃいましてね、これから皆でご飯を食べに夜の街に繰り出そうとしているところです。村長殿も如何ですか?」
と言ったところでシマッタと思った。ここは街ではない。
「ま、街? 村の言い間違いでしょうが、喜んでお供致します」
「失礼、以前の職場で同僚と飲みに行くことを夜の街に繰り出すと言っていたもので。ところで、この街、おっとまた失礼、この村でこの時間に営業しているレストランと運転代行サービスはありますか?」
「観光シーズンを少し過ぎていますけど、◯◯亭はまだやっています。先生のご自宅からわりと近くにありますので、今そちらにいる村の者は全員、場所も道も知っているはずです。代行はあるにはあるのですが、ドライバーの数に限りがあって少し不安ですね。でも今夜は飲みましょうよ。今、この役場には残業好きの連中が大勢働いています。私から誰かに頼んで全員を家まで送らせます。では、現地で落ち合いましょう」
お調子者
早見が電話を切ると、「送迎は僕にお任せ下さい」と武田がすぐに近寄ってきたので、早見は苦笑した。業務内容が限られている小さな役場でどうでもよい仕事を無理に作って残業代を稼いだ上に村長からも小遣いをもらうとは虫が良すぎる。
清濁併せ呑み
梅澤が清廉潔白の男であるとすれば、早見は清濁併せ呑む男であった。自己保身のために平気で嘘をついたり、他人に罪を着せたりする下劣な人間とは対決を厭わず、徹底的にやりこめる鬼のような怖さが彼にはあったが、許容範囲内の悪事を働く正直者(?)には仏のように優しかった。
組織のトップにそのように言われれば、普通は邪な残業目的がばれてしまったことに狼狽する。しかし、武田は臆することなく姑息な残業を認め、小遣い欲しさにご一行の送迎役に立候補する図太さまである。早見はこの明るい男を憎めなかった。
早見は武田に飲み会の会場となる料理屋に役場のワゴン車で午後11時に来るように命じ、財布から一万円札を無造作に抜き出し、武田の手に握らせた。
宴の始まり
早見が待ち合わせの料理屋に到着した時、梅澤らはすでに郷土料理に舌鼓を打っていた。
と早見が挨拶すると、梅澤が立ち上がり、用意していた真ん中の席まで早見をエスコートした。早見は軽く会釈して、いつも自分を立ててくれる梅澤の心配りに感謝した。
「今日は心ゆくまで飲んで下さい。勘定は梅澤先生持ちと聞いていますので」
早見の軽口に一同が笑ったところで、二人娘が姿を見せた。春美夫人が呼んだという。
早見がいつもの毒舌で二人娘をからかうと、理沙が
「そんなこと言うと後援会の人たちに村長さんのスキャンダルをまき散らしちゃうよ」
とからかい返し、舌を出して笑った。
「俺にスキャンダルは一つもない。身近にいるお前が一番わかっているだろうが!」
「情にもろい村長さんが役場で働く若い人たちに不要な残業代を与えているって村中にバラしちゃおうかな」
影武者
早見からは私設秘書としての給料はおろか小遣いすら受け取っていない。些少なりとも謝金を渡したい早見が何度話を持ちかけても絶対に応じない。
社会的常識からすれば、本人が謝金を払いたいと言っている以上、素直に受け取っても全く罪にはならないが、理沙は自分の純粋な善意が結果的に悪意に変質してしまうことを恐れた。
鋼鉄のような理沙の心は打ち破れず、成すすべのない早見は理沙の両親が経営する米屋から必要以上の米を買ったりしていたが、それでも理沙の献身の度合いには見合わず、理沙の誕生日には彼女の一家全員を自宅に招いて饗応していた。
理沙が役場の事情に通じているのは、そのような場で酒に酔った早見が口を滑らせて身辺の話を頻繁にするからであった。
爆笑相次ぐ
「ご恩返しがスキャンダル暴露とは斬新な発想ですね」
と真顔で言うと爆笑の二重奏となった。人を笑わせることが好きな早見は上機嫌になった。
「さあ皆さん、今宵は遠慮なくお飲み下さい。皆さんをご自宅までワゴンで送迎する運転手をすでに手配済みです。今、理沙が言った不要な残業代を掠め取っている男が11時頃に来ます」
再び笑いが起こった。
大見得を切った早見に村人たちの興奮は頂点に達した。2日連続でこの料理屋に来ることは村人にとって夢のような話なのである。
海外観光地にて
早見は数年前に全国町村会の親睦旅行で東南アジアの海岸リゾートに行った時のことを思い出した。
上半身裸の中年男は極端に日焼けした顔が痛々しかった。富める者と貧しき者の縮図がそこにはあった。
興味本位に早見は男の後をついて行った。彼は海岸沿いの高級レストランに一軒一軒立ち寄り、清掃用具や洗剤などを販売していた。
男は意味不明の不労所得に驚いたが、ただでお金をもらうことに気が引けたのか、破れかけたズボンのポケットから両切り煙草を一本だけ取り出して早見に渡した。
既視感
酒に酔い、静かに思い出に耽っていた早見は、同じ構図が今、目の前にもあると思った。
この村では、貧しい村人たちも奮発さえすれば、豪華レストランで食事ができる。しかし、財布の紐が堅い村人たちにとって、そのような浪費は現実的な選択肢とは言い難く、高級店は都市と過疎地の貧富の差をシンボリックに浮き彫りするものでしかなかった。
次なる課題
乱痴気騒ぎ
若い理沙と葵がキャーキャー騒いで、飲み会は大いに盛り上がった。
ここに来るまでは寡黙であった春美夫人も次第に陽気になってきて、皆の写真をパチパチと撮り始めた。
春美夫人の言葉に年配の村人たちは「もっとハイカラな服を着てくればよかった」と言いながらも、喜色満面の表情を見せた。
重篤な持病
宴のたけなわを過ぎた頃、梅澤が神妙な面持ちで囁くように言った。
「ところで、皆さんにお知らせしなければならないことがあります。今まで伏せていたのですが、今ここに集っておられる方々は家内と特に親しい関係にあると思いますので・・・」
急に重苦しい空気が流れ始め、梅澤は逡巡したが、意を決して話を続けた。
「実は、家内は血液の病に冒されています。今後は2ヶ月に一回、地元に帰り、三日程度の検査入院をすることになりました」
移住の真意
春美夫人の一番の趣味がガーデニングと植物採集であることから、梅澤は美しい自然に囲まれたこの村で妻に有終の美を飾ってほしいと願ったのであった。
落涙
一同は表情を曇らせた。葵が尋ねた。
春美夫人の最初の友となった葵の落ち着きのない目を見て、梅澤はどこまで真実を告げるべきか躊躇した。空気がさらに淀んだ。
「なんとも言えません。急に容態が悪化して危篤に陥ることもありますし、何年も生きられる可能性も十分にあります」
梅澤夫妻を除く全員の目から大粒の涙が零れ落ちた。
気丈な春美夫人が今まで持病を隠していたとはいえ、何故、もっと早く気付いてあげることができなかったのか、と心優しい村人たちは自分を責めた。
急転直下
送迎役の武田が到着して宴はお開きとなった。楽しかった会食が急転直下、お通夜のような寂寥に包まれてしまったことを梅澤は悔やんだ。「何年も生きられる可能性も十分にある」という言い方に問題があったことに今頃になって気付いた。
だが、「あと何年も生きられる」という表現は、まだ38歳の春美夫人が「あと何年かで他界する」と言っているのに等しい。梅澤は話術の未熟さを猛省した。
村人の落胆ぶりを見て、自分の妻がこれほどまでに人から愛されていることを知った梅澤は目頭を熱くした。
不気味な静寂
一同を乗せたワゴン車は月夜の薄暗い明かるみの中を静かに走っていた。車中の会話はなかった。畦道(あぜみち)からは蛙の鳴き声だけが夜のしじまに響き渡った。陰鬱なムードを破ろうとして、梅澤が声を発した。
しかし、それが出任せの発言であることを誰もが見抜いていた。すぐに居心地の悪い静けさが戻った。
解かれた謎
早見は梅澤一家がこの村へ移住した理由がやっとわかった。
裏山で草花を刈り取っては自宅の庭に植え、楽しそうに育てている春美夫人をこれまでに何度も見てきた。
妻の余命が幾ばくもないことを知った梅澤が大幅な減収を顧みず、妻の趣味が生かせるこの村に越してきたことを思い、早見は胸が熱くなった。
月光に照らされた同乗者の顔は一様に推理小説を読み解くような表情を浮かべていた。誰もが同じことを考えているに違いない、と早見は思った。
光陰
6年の歳月が矢の如き速さで過ぎ去った。
周囲の人々は笑顔を絶やさない春美夫人を見て、危機的状況はすでに通り過ぎたと胸を撫で下ろした。
生きた証
彼女は馥郁たる薫りを放つ梅の木をぼんやりと見上げ、生きているうちにあと何回、この美しい花を見ることができるだろうか、と哀しい思索に耽っていた・・・
川釣り
厳しい冬の終焉の後に訪れる北国の春は村人たちの心まで温める。村人たちの交流が再び活気を帯びてきた。
家族水入らずのひとときを邪魔されても、梅澤は嫌な顔ひとつせず、釣った魚を希望者に譲っていた。
変わり果てた容姿
青葉の薫る季節になった。早見は村長室で各部署から上がってくる月末資料に目を通していた。ドアをノックする音がした。総務課の武田が入ってきて、来客の訪問を告げた。
「誰だい?」
「梅澤先生の奥様です」
「お通ししろ」
武田に伴われて入室した春美夫人は
「ご無沙汰しております」
と言って深々と頭を下げた。
「お元気そうで何よりです」
うっかり型通りの挨拶をしてしまった後、早見は思わず息を飲み込んだ。
梅の苗木
春美夫人はビニール袋に入れた小さな木を持参していた。
「梅の苗木です。今、お世話になった方々に配っておりまして、差し支えなければ、早見さんにも受け取っていただけないかと・・・」
一年ほど前、学校の父兄会に体調の優れない春美夫人が行けなかった時に早見が梅澤夫妻の息子の親代わりになって出向いたことがあった。はじめは梅澤が時間のやり繰りをして出席する予定であったが、急患が出た関係で春美夫人が早見に懇願したのであった。
春美夫人にしてやったことと言えばこの程度のことしか思いつかなかった早見は高過ぎる返礼品に顔をしかめた。又、一年も過ぎてからお礼をされるのも不自然であり、早見はその真意がすぐには見抜けなかった。
「お世話をした覚えはないのですが・・・」
「素敵な村に住ませていただいたことへの感謝の証です。ご自宅のお庭に植えていただけないでしょうか」
春美夫人がこの村を愛していることは、今ではもう疑いようのない事実である。これほど嬉しいことはないが、死期を悟った春美夫人がゆかりのあった人々に形見を残しているように思えてならなかった。
「ありがとうございます。きっと女房も喜ぶでしょう」
早見は春美夫人の真心を空虚な心で受け取った。目の前の麗人の瞳は死を間近に控えた者が放つ哀しくも玲瓏な光を浮かべていた。早見はそれに射抜かれた。春美夫人は何か思い詰めるような目で早見の顔を見つめ、しばらくしてから別れの言葉を口にした。
「今日はこれでお暇します。こんなに小さな木ですが、3年か4年で花を咲かせます。最速で1年です。大事に育てて下さいね」
と言い残し、彼女は部屋を出ていった。
早見は春美夫人の余命が3〜4年、もしくは1年しかないのではないかと不吉な予感に襲われ、彼女とのこれまでの思い出が走馬燈のように甦ってきた。梅澤がこの村を去る日もそう遠くないと思った。
天道とは
古代中国の歴史家、司馬遷のように、早見は自問自答を繰り返した。天道は是なのであろうか非なのであろうか、と。
遠来の患者
診療所は村の住民はもとより他村、他県の病人まで集めるようになった。
初夏の日差しが強まった日に仙台のやぶ医者の誤診被害に遭った男性が車に乗って診療所にやってきた。
彼が言うには、片足に赤みを帯びた斑点のようなものができたので、皮膚科クリニックで診てもらったところ、「とびひ」(伝染性膿痂疹)と診断され、処方された軟膏をいくら塗っても快方に向かわず、足の不快感は増す一方であるという。
梅澤はさり気なく患者の職業を尋ねた。家具の輸入業者であった。梅澤は彼が着ている垢抜けた衣服に目を光らせた。
一瞬で見抜く
患者の足の斑点を眺めながら、梅澤はゆっくりと話し始めた。
「断定はできませんが、これはとびひではないと思います。静脈血栓の可能性が考えられます。今から車でご送迎しますので、県立病院で精密検査を受けて下さい」
「先生、それはやばい病気なんでしょうか」
と不安そうに尋ねた。
「ずっと放置して静脈にできた血栓が肺に達すると深刻な事態を引き起こしますが、通常は医療ガードルで足をきつく縛りつけて血行を良くするだけで治りますよ」
患者がホッとした表情を見せると、梅澤は彼の緊張をほぐすために雑談を始めた。
「ところで、先程から気になっていたのですが、今、お召しになっているシャツはデザインが洒落ていますね。夏服なのにサンタ・クロースの刺繍があるということは、もしかして北欧製ですか?」
「はい。コペンハーゲンに出張した折に買いました」
「海外出張は頻繁にありますか?」
「そうでしたか。静脈血栓という病気は飛行機によく乗る人に発症傾向がありましてね、北欧のような長距離飛行の場合は長い時間、足を狭苦しい場所に置いてじっとしているでしょう?」
「エコノミーなんとかという症候ですか」
「然様でございます。足の血行が悪くなると血栓が生じやすくなるんです。まだ確定ではありませんが、精密検査を受けてみて下さい」
数カ月以上も無意味な軟膏を塗り続け、病状が悪化の一途を辿っていた患者は不安のどん底に突き落とされていたが、漸く解決の糸口が見え始めた。
驚異の眼力
診療所の運転手が患者を県立病院に運んだ。梅澤は県立病院の医師に連絡を取り、静脈血栓を疑って検査をするようにと具体的な指示を与えた。
患者は医療ガードルで足を縛られた状態で診療所に戻ってきた。
すでに県立病院からの電話報告で検査結果を知っていた梅澤は
「由々しき事態に至らなくてよかったですね」
と微笑んだ。
医師の嗅覚
患者は自分の職業とシャツを手掛かりに病名を言い当てた梅澤の迸る才気に驚愕した。
梅澤は予め用意していた紹介状を手渡し
「これを持ってご自宅から近い病院に行って下さい。血栓は小さなものだったようですし、数も多くはなかったようですので、血栓を溶かす薬を服用すれば、多分、2ヶ月前後で完治するはずです」
と言った。
危機一髪
やぶ医者に騙され続け、無意味な塗り薬の使用を継続していれば、やがて血栓が肺に飛び、命を失う危険もあったと思うと、彼はぞっとした。早見が提唱する予防医学の重要性を梅澤はことごとく証明した。
一杯のジュース
猛暑の日々が続くようになると、体調を崩して診療所に来院する村人の数が急増した。彼らが申告する体の異変の大半はたいした問題ではなく、久々に梅澤に会いたい人たちの口実であったが、梅澤はそのような人々を愛おしく思った。
患者の診察はあっというまに終わってしまう。これでは貴重な時間をかけて自分に会いにくる純情な村人に申し訳ない。
とニュースのアナウンサーが時間が余った時に言うような台詞を梅澤がアナウンサーの口調を真似て口にするたびに患者からは笑い声が漏れた。
「さしあたり、これでも飲んで喉を潤して下さい」
梅澤は一杯のジュースを使って村人たちとの絆を深めながら、自分がこの村にあと何年いられるだろうか、と近い将来に訪れるであろう村人たちとの別れを思い、患者が去るたびに深く嘆息した。
灰色の風景
11月、暑かった夏が幻であったかと思えるような寒波が村を覆った。木枯らしの1号が吹き荒れ、紅葉の時期が終わると、村を訪れる観光客の数もまばらとなり、寂しさと厳しさしかない北国の冬が到来した。
産業振興の成功と診療所の設置は彼の成した二大偉業として、村人からの絶賛を勝ち得たが、早見は梅澤夫妻をこの村に住まわせたことが最大の業績であると信じて疑わなかった。
輝きの村
たった二人の人物が寂れた寒村を光り輝く村に変えた。
それよりも梅澤夫妻と交流した村人たちの顔が皆一様に輝き、老いも若きも男も女も、金銭的な価値では測ることのできない幸せをかみしめていることが思いもかけぬ僥倖であった。
幸せのリレー
思いやりに満ちた人は、腹立たしいことがあっても他人を許す心の余裕がある。逆に他人への憎悪で心が荒れている人は、ちょっとした不満でもキレやすく、思いやりではなく「重い槍」を持って平気で他人の心を刺し抜いてしまう。
夢想
村長職も5期目に入り、すっかり年老いた早見は、次期村長には梅澤が相応しいと思った。この村の太陽とも言える梅澤が村長になれば、太陽を囲む無数の星もその輝きを増すであろう。
天職である医師業を辞めて、新天地に踏み込む意志が梅澤にあるとは思えないが、彼がその気にさえなれば、不慣れな政治、行政の仕事は自分がいくらでもサポートすることができよう。理沙のように自分が無給で秘書をやってもよいと思った。
春美夫人が若くして亡くなれば、梅澤がこの村に住む理由もなくなるのだ・・・
葵との触れ合い
葵のアポなし訪問に慣れ切っている早見は少しも驚かず、新年の祝詞を交換し合った後、「入れ」と言って、彼女を居間に通した。
「何かいいものないかな」と物色する葵を早見も妻もニコニコしながら眺めていた。梅澤夫妻を通じて急速に葵とも親密な関係になった早見にとって、今では葵も理沙のように家族同然の存在なのである。
早見には二人の息子がいるが、いずれも結婚して東京で暮らしている。早見夫妻と葵はお茶を飲みながら息子たちから入ってくる首都の最新情報の話題で盛り上がった。
小さな蕾
帰り際、葵は庭に植えられた梅の苗木を見て、「あっ」と叫んだ。
「ねえ、見て、見て。蕾ができてるよ!」
春美夫人からは花が咲くまで最速で一年と言われたが、もしかしたらもうじき開花するかもしれない。
「よし、花が咲いたら、ここで花見酒だ。どんなに寒くてもやるぞ! メインゲストはもちろん春美さんだ。お前も友だちを連れてこい」
「お酒の肴は私が社員割引で買ってくるわ」
「おお、それは名案だ。ついでに店長も連れてこい」
二人は子供のように無邪気にはしゃいだ。
突然の電話
突然、部屋の電話が鳴り、受話器を取るとフロントの交換手が
「お電話が入っておりますのでお繋ぎします」
と言った。
光芒一閃
春美夫人の訃報であった。
巨星墜つ
「すぐに連絡してくれてありがとう。明日、俺の家に行って女房から喪服一式を受け取り、ここまで届けてくれ。二人で葬儀に出よう」
花開く前に
今まで弔辞を頼まれることは多かった。しかし、過去の弔辞は全て紋切り型の平凡なものにすぎなかった。極端に短ければ誠意に欠けるので、故人と親しかった人からなんらかのエピソードを聞き出し、原稿を少しでも長くすることに苦心した。
原稿は「貴方からいただいた梅の木が花を咲かせる前に、貴方とお別れしなければならないことが無念でなりません」と結ばれていた。
無気力
葬儀は翌日に春美夫人の木更津の実家で執り行われる段取りになっていた。
村長が顔を出せば、十分に村を代表したことにはなるが、早見が梅澤夫妻と親しすぎて友人としての参列になってしまうと考えた彼は、この日の朝に早見と連絡をとり、役場からの参列者に故人とかかわりを持たなかった役職者を一人くらい含めた方が如何にも公的な弔問という印象を与えると主張した。
早見はそんな理由までつけてここまで来てくれた重役と喪服の件で手を煩わせた工藤に礼を述べ、
「木更津は遠い。今夜は早目に就寝しよう」
と元気のない声で言った。
長旅に疲れている二人に夕食を驕ってやりたいとも思ったが、寝不足と得体の知れぬ虚脱感に襲われ、早見は足早に自室に戻った。工藤と重役も早見と同じホテルに宿泊した。
いざ木更津へ
信じ難い光景
一旦、家の外に出た早見は不思議な光景を目にして、その場に呆然と立ち尽くした。
遠くの方から列を成した7台のマイクロバスが徐行しながら近づいてくる。車間距離がほとんどなく、まるで電車が路上を走っているかのように見える。
先頭のバスが春美夫人の実家の前で停まると、顔見知りの人間が次々と降りてきた。はじめに診療所婦長役の美津子と他の看護師が下車して、続いて梅澤に恩義を抱く人々、春美夫人の友人らが大挙して押し寄せてきた。もちろん、二人娘もいた。彼らは玄関の前に立つ早見の前で恭しく頭を下げ、家の中に入っていった。
早見は感動で胸が震えた。
珍客
清らかな心
武田は梅澤とも春美夫人とも数えるほどしか会っていない。ろくすっぽ会話もしていない。
武田は村人たちから梅澤夫妻にまつわるいろいろな話を聞き、二人とも尊敬していると日頃から語っていたが、お調子者の彼のことなので早見はその言葉を額面通りには受け取っていなかった。
しかし、武田を誘って歩き始めてしまった手前、何か話をしなければならなくなった。早見は自腹を切ってまで葬儀に参列した武田を褒めた。武田は持ち前のひょうきんさを発露して、
「先月稼いだ残業代が吹っ飛びましたよ」
と言って、白い歯を覗かせた。
異邦人との語らい
不意を突かれた武田はきょとんとした表情で
「なんでしょうか?」
と尋ねた。
「春美さんへの弔辞を俺が読む予定なんだけど、頼まれたわけじゃないんだ。葬儀社の人の所に行って、話をつけてきてくれないか。自分で言うのは格好悪いからな」
その間、早見は梅澤の友人、知人らと名刺交換をして、「弔問外交」に忙しかった。医師仲間、大企業の社長、弁護士、ジャーナリスト等、多士済々であったが、早見は村のセールスマンとして、村のPRに余念がなかった。
早見の話に興味を覚えた人から村の特産品について訊かれた時、早見は葵が勤める土産店の店長を紹介した。早見は必要に応じて、梅澤及び春美夫人の関係者と村人たちと引き合わせて、団欒に花を咲かせた。
早見が間に入るだけで緊張がなくなり、村人たちは滅多にない「異邦人」との語らいを存分に楽しむことができた。
外に戻ってきた武田が
「弔辞の件はOKとのことです。そろそろ読経が終わります。急いで中にお入り下さい」
と準備を促した。
早見が再び家に入ると、葬儀社の社員と雑談していた村の重役が
「今、入ってきた者が村長の早見です。先程、武田から話があったと思いますが、弔辞を用意しております」
と言った。
前代未聞の弔辞
葬儀社の社員はマイクを取り、
と早見を紹介した。
早見のスピーチは堂々たるものであった。大観衆を前に大音量のマイクで話すのは選挙活動で慣れている。男らしい野太い声で、いつもとは違う東北訛りのほとんどない流暢な標準語で、早見は弔辞を読み上げた。
村人たちは人前で話す機会の場数を踏み、如何なる場所でも見事なスピーチで場を盛り上げる早見を誇らしく思った。都会人や社会的地位の高い人物とも対等に渡り合う早見を改めて尊敬した。
淡々と淀みなく朗読を続けていた早見であったが、スピーチの終わりに近づいて「貴方からいただいた梅の木・・・」と言いかけた途端、声が出なくなった。急に嗚咽が漏れ始めた。
予期せぬハプニングに動揺した理沙であったが、早見が無言で指差した便箋上の箇所に視線を落とし、たどたどしい口調で続きを代読した。
「貴方から いただいた 梅の木が 花を咲かせる前に 貴方と お別れしなければならないことが・・・」
今度は理沙が絶句した。目を真っ赤にした早見が慌てて戻った。素早くハンカチを返してマイクを奪うや否や
「無念でなりません!」
と涙声で絶叫した。
辛うじて最後は自力で締め括った早見が力なくお辞儀をすると、我に返った理沙も一緒に頭を下げた。
二人は葵と工藤に伴われて控室に消えた。
梅澤の去就
早見が
「昨日は遠路はるばる御苦労様でした」
と言うと、美津子は
「あの弔辞には泣かされました」
と心中の思いを吐露した。美津子も春美夫人から梅の苗木をもらった一人であった。
「ところで、梅澤先生は?」
「しばらくお休みされるそうです」
「いつまで?」
「わかりません。奥様の急逝で心に大きな穴があいたと仰っていました。先生は有給休暇が20日以上も溜まっていましたので、その日数だけ知らせました」
「全部消化した場合、今月いっぱいは休診になりますな」
「私、もう先生がお戻りにならない気がして・・・」
「梅澤先生は辞意を仄めかすようなことを口にされていましたか?」
「具体的には何も。でも、今後の身のふり方を考えるための時間がほしい、と」
梅澤に支払う退職金の準備や次の医師を雇うための求人広告など、新たな仕事が山積している。これらの件を担当職員と協議するため、早見は急いで役場に戻った。
募る焦り
梅澤現る
梅澤の有給休暇の最終日、夕刻になって役場の外で車が停まる音がした。職員が総立ちになった。車からは長身の男が降りてきた。
誰かが叫ぶと、一階の全職員が仕事を放り出し、外の駐車場まで一斉に走っていった。早見は彼らのせわしない動きを目にしながら、敢えてその輪には加わらず、静かに村長室に戻った。
別れの儀式
村長室の扉をくぐった梅澤に、機先を制して別れの挨拶をする。驚いた梅澤が「わかっていたのですね」と言う瞬間を捉え、今までの功績に感謝の意を表する。梅澤が差し出した退職願いを開封せずにそのまま返す。形式上は退職を受理するが、今後は診療所の名誉所長として名を借りたい旨を伝え、本人の了承を得る。こんなシナリオを思いついた早見は早くもスタンバイした。
ところが、待てど暮らせど梅澤は入室しない。役場の外からは時折、笑い声が聞こえてくる。どうやら職員たちとの立ち話が長引いているらしい。痺れを切らした早見は外に出た。
急進展
「長い間、ご迷惑をかけました。もうここにいらっしゃる方々には話したんですが、子供の転校手続きやら役所への書類提出等にふり回されて、連絡ができませんでした。ごめんなさい」
と詫びた。
折角のシナリオが崩れてしまった。これより先は臨機応変に立ち回るしかない。早見が
「そういうことだったんですね。今まで本当に・・・」
と言いかけた瞬間、遮るように梅澤が
「三人の息子は家内の実家で面倒を見てもらうことになりました」
と畳み掛けたので、早見の頭は混乱した。
急な話の進展と噛み合わぬ会話に、早見は状況判断能力を失った。周囲を見渡すと、職員たちの明るい笑顔があった。皆を代表する形で工藤が声を張り上げた。
万雷の拍手が起こった。
「単身赴任?」
頭の中で梅澤との別離が既定事実となっている早見はこの段階に及んでも言葉の意味を掴み切れずにいた。梅澤が村に残ることになったと理解できたのは、ある職員の戯言を聞いてからであった。
「村長、梅澤先生との宴会はなるべく平日の夜に開いて下さいね。もちろん、帰りの送迎は僕がやります」
武田が言うと、7年前の出来事を思い出した残業仲間が苦笑いした。
大決断
梅澤は改めて音沙汰なしの非礼を詫びた。
「連絡が遅れて大変失礼しました。実は休暇中に同業者からいろいろな仕事のオファーがあったんですよ。どの話も条件の良いものばかりでした。大病院の院長とかね。私も52歳の働き盛りですから悶々と悩みましたよ。でも、結局は全部断りました」
早見が怪訝そうに尋ねると、梅澤は吹っ切れた表情で語り始めた。
「家内の葬儀では、早見さんに素晴らしいスピーチをしていただきましたし、あんなに大勢の方々が駆けつけて下さった。辞めるわけにはいきませんよ。私は義理を軽んじる人間にはなりたくない・・・」
神秘の舞い
早見は稲妻のような感動に心を打たれ、ただひたすらに頭を下げ続けた。
「家内が親しい人たちに託した幼木が立派な大木に成長するまで、私はこの村に一人で住み続けます」
と梅澤が宣言した時、突然、神秘的な光景が現出した。
その華麗な舞いに一同はしばし見とれた。早見はこれを天が与えたもう祝福の記章と解した。
役場を囲む樹木からは早くも仄かな梅の薫りが漂い始めていた・・・
エピローグ
梅澤 誠は妻の死後、12年間に渡って医療・福祉の分野で村の発展に尽力し続けた。来村してから19年が経過した2002年、体力の衰えを理由に惜しまれながらも引退した。その後、梅澤夫妻をモデルにしたドラマや小説を通じて、村は再び脚光を浴びた。
2011年、東日本大震災が村を直撃して、甚大な被害を生み出した。村人たちは不屈の闘志で団結して、この試練を乗り越えた。
石碑には「花笑みの村」と揮毫され、春美夫人がこよなく愛した梅の花の絵が彫り込まれている。(了)
リヴィエラ倶楽部
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