佐藤忠志先生との出会いが攻略法を生んだ

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突然の訃報

 先日、山手線の車内でスマホを閲覧中、予備校界のスーパースターとして勇名を馳せた佐藤忠志先生(通称・金ピカ先生=写真)がご自宅で誰にも看取られることなく68年のご生涯を閉じたという悲しい事実を知りました。

 薄暮に染まる窓外の景色を眺めながら、私は瞼に大量の涙を溜め込んでいました。
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 奇しくも電車は代々木を過ぎ、私が乗り換える新宿駅に向かうところでした。高校卒業後、私は大手予備校の代々木ゼミナールに通っていました。それは受験勉強をするためではなく、佐藤忠志先生に会いにいくためでした。


マスコミへの怒り

 佐藤忠志先生はまさに「一世を風靡した」という形容が相応しい方でした。タレント転向後の最盛期はテレビ、ラジオ、雑誌にひっぱりだこでした。ネット上の訃報記事でも各社一様に「一世を風靡した」という文字を躍らせています。しかし、マスコミは故人の不名誉なことを暴露する記事を平気で流しています。

 佐藤忠志先生が売れっ子であった時代はいつも低姿勢で(尊敬もしていないのに)「先生、先生」と持ち上げておいて、ご本人がこの世を去った後は「年収2億円の人が生活保護の身に転落」と容赦なくペンの暴力を奮うマスコミの浅ましさには辟易します。「佐藤忠志先生が今までに払ってきた税金の10分の1すら払っていない人たちが偉そうなことを言うな」と言ってやりたい心境です。

 人に知られたくないプライベートな事情まで報道されてしまうのは著名人の宿命です。商売上、マスコミがそのようなことに言及するのも結構ですが、その一方で故人の功績や遺徳を称える配慮というものがあってもよいでしょう。

 世間の耳目を引くために人の不幸をけなすような論調は断じて許せません。人の不幸をネタにして飯を食うとは何事ですか!

コラム紹介

 佐藤忠志先生の名誉回復の一助になればと思い、久しく更新していなかったリヴィエラ倶楽部・青い鳥の詩より冒頭にリンクしたコラムを発表しました。パチンコとは無関係な話ですが、リヴィエラ門下生(最強攻略法・海殺しX購入者)の方々には是非、ご一読いただきたい小文です。

 このコラムは代ゼミ時代の佐藤忠志先生の思い出、佐藤忠志先生にまつわるおもしろエピソード(恐らくマスコミがまだ報じていないもの)を綴りつつ、最後は私の人生に多大な影響を与えた佐藤忠志先生の人生哲学を紹介しています。

代ゼミ時代のパチンコ修行

 この機会を利用して、パチンコ素人時代の私のエピソードについても触れてみたいと思います。

 代ゼミに通っていた頃の私は受験勉強をほとんどせず、毎日のようにパチンコの攻略に没頭していました。最強攻略法・海殺しXが完成する遥か前の話です。

 佐藤忠志先生の午前中の授業が終わった後は午後の授業をさぼって、昼食もろくにとらずにホールに直行する日々が続いていました。

 当時、代々木駅の近くに庶民的なパチンコ屋があり、仕事をさぼっている外回りの営業マンなどがたむろしていました。授業をさぼっている私もこの風景に自然に溶け込み、今では過去の遺物のようになってしまったハネモノ台を打っていました。すでにデジパチも出ていましたが、まだハネモノと人気が拮抗している時代でした。

 パチンコ歴が何十年という人にしか通じない話でしょうが、ゼロタイガーと人気を二分したキングスター(写真)という機種が私のオハコでした。
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 大抵のハネモノには羽が1回開く入賞口と2回開く入賞口がありました。普通は2回の入賞口は釘が厳しくなかなか開かず、1回の入賞口は良い台の場合、釘がかなり甘くなっているのがハネモノの全般的な特徴でした。

 今では釘読みなどほとんどしなくなった私ですが、まだ釘読みが勝負の明暗を分ける時代でした。

 今のキングスターはよく知りませんが、当時のキングスターは羽が開く入賞口の釘が軒並み良好で優秀台はこれでもか、これでもかというほど羽が頻繁に開きました。その代わり羽が開く開放時間はごく一瞬のため、なかなか羽が玉を拾わず、Vゾーン(そこに入れば長時間の羽の開放が始まる)に玉を入れるのが困難なことに特徴がありました。

 当時はパチンコの攻略に手先の器用さが求められた時代でもあったのです。

 子供の頃から手先が不器用であった私は図画工作や家庭科といった教科が大の苦手でした。しかし、佐藤忠志先生が「苦手なことほど嫌がらずに何度もやれ。何度もやっているうちに突然、できるようになるから」と励ましてくれたお陰で何事にも果敢に挑戦する自分の生き方の基礎ができたように思います。

 パチンコのハンドル調整(今ではそれほど重要ではないが)などは面倒でしたが、よくよく考えてみれば、ただ面倒なだけで難しいものではありません。

 私は一回羽が開く入賞口に玉が入った瞬間にある地点を狙って右打ちすれば玉が羽に拾われやすいことに気づき、この戦法で連戦連勝を続けました。

 当時は百円単位で玉が買えて、良い台は300円でもかなりもちました。300円単位で投資をしていくという実にのどかな時代でしたが、さすがに駄目な台に2千円も3千円も注ぎ込むようでは、勝つための勝負からドローを目指す勝負に切り替えなければならない厳しさもありました。

 私は最悪でも900円で羽の長時間開放にこぎつけることを目標に、台選びには慎重を期しました。

 ハネモノにはホルコンの作用が絡んでいなかったため、釘の良い台さえ見つければ、簡単に勝てました。

 デジパチと違ってホルコン判定などが無関係である以上、当然ながら周囲の観察をする必要もありませんでした。

 300円か600円で羽の長時間開放を実現させて、ある程度の持ち玉ができれば、よほどのことがない限り、追加投資もすることなく徐々に持ち玉を増やすことができました。

 持ち玉が金額にして7千円くらいになると店員がやってきて「打ち止め」(強制的なプレー終了・・・その後、その台は誰も打てない)となりました。

 すっかり天狗になっていた私は儲けた金で高級レストランに行き、少し遅い昼食をとる日々を楽しんでいました。

 いつも同じレストランに行っていましたが、黒服に蝶ネクタイをした支配人が毎日やってくる場違いな未成年(私)を怪訝そうな表情で眺めていたものです。

 それが私にはたまらない快感でしたが、今思えば、こんなことで喜ぶとは人間として実に未熟者でした。

さよなら、金ピカ先生

 佐藤忠志先生は常日頃から受講生に「自分にできないことがあると思うな。受験に限らず、人生には攻略しなければならないことがいくらでもある。常に自分の頭で考えて少しでも前進しなさい」と激励して下さいました。

 その後、パチンコの歴史に劇的な変化が生じました。

 デジパチ全盛の時代に突入し、ホールで発生する当たりの約95パーセントはホルコンに誘発されるものとなりました。釘読み技術や手先の器用さは、もはや攻略の本質ではなくなりました。

 しかし、私はひとつの道を極めるため、パチンコ攻略の研究をやめることはありませんでした。「好きで始めた挑戦であれば、少々の困難は必ず克服できる」という佐藤忠志先生の力強い言葉を常に信じていました。

 ホールで発生するあらゆる現象に注目し、仮説を立てては実験を行い、立証できたものだけを集大成した最強攻略法・海殺しXの誕生の背景には、青年期の私が私淑した佐藤忠志先生の存在があります。

 「最小の努力で最大の成果を」というのが佐藤忠志先生のモットーでした。これはパチプロを目指した私のその後の人生の座右の銘にもなりました。最小限の投資で最高の出玉を狙うことに海殺しXの存在意義があります。

 若くして天国に旅立たれた佐藤忠志先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

リヴィエラ倶楽部

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